葦沢かもめ

ミューズ・クロニクル:硝子の靴と泥の足

第1話 硝子の靴の値段

白い。


この世界には、こんなに白いものがあるんだと、俺は思う。


ショーウィンドウの向こうで、純白のスニーカーが一対、まるで天上から降りてきた天使の羽根のように輝いていた。人工照明が織りなす柔らかな光が、その革の表面で乱反射している。汚れひとつない、傷ひとつない、まるで誰も触れてはいけないかのような神聖さを纏った一足。スラムの泥道で育った俺にとって、それは手の届かない天国の象徴だった。


値札を見る。給料の、ちょうど一ヶ月分。


俺は無意識に財布を握りしめた。革製のそれは、三年前に護衛官採用試験に合格した日、自分へのご褒美として買ったものだ。もう角が擦り切れて、内側の縫い糸がほつれかけているけれど、それでもこれは俺が「上層市民」になった証なんだ。下層(アーカイブ)で暮らしていた頃は、財布なんて持っていなかった。現金を靴下の中に突っ込んで、盗まれないように寝る時も履いたままだった。そんな俺が今、こうして高級ブティックの前に立っている。


でも、これは俺のためじゃない。


「明日で、リナは十七歳か」


呟いた声が、自分でも驚くほど温かかった。リナ。俺の唯一の家族。両親を感染症で失ってから、俺たち兄妹はずっと二人きりだった。あいつが十歳の時、俺は十四歳で、スラムの廃品回収所で働いていた。展示不適格とされた「負の歴史」の残骸――古い拷問器具、処刑記録、戦争の記念碑――そんなものを分解して、金属くずとして売る仕事だ。手のひらは毎日血だらけで、爪の中には錆と泥が詰まっていた。それでもあの頃は、リナの笑顔が見られればそれでよかった。


そして俺は、誓ったんだ。


「あいつには、泥の中を歩かせない」と。


だから必死で勉強した。上層の図書館に忍び込んで、閉館後に隠れて本を読み漁った。時には警備員に見つかって追い出されたこともあったけれど、それでも諦めなかった。そしてついに、博物館護衛官の採用試験に合格した。スラム出身者が上層で正規雇用されるなんて、宝くじに当たるより難しいと言われていたのに、俺はやってのけたんだ。


今、俺はこうして上層(ギャラリー)で働いている。給料は下層の十倍。綺麗な制服を着て、綺麗な建物で、綺麗な人たちを守る仕事。でもリナはまだ、下層のアパートに住んでいる。俺の給料では、二人で上層に住むほどの余裕はない。いつか、いつか必ずリナも上層に連れてくる。そのために俺はもっと働いて、もっと稼がなければならない。


そして、せめて明日くらいは――。


俺はブティックの自動ドアをくぐった。空調の効いた店内は、アーカイブの湿気と悪臭とは無縁の、別世界だった。床は大理石のように磨き上げられ、壁には抽象的なアート作品が飾られている。店員は全員、真っ白な制服を着ていて、まるで病院の天使のように見えた。


「いらっしゃいませ」


笑顔で近づいてくる若い女性店員。彼女の靴も真っ白で、俺の制服靴とは雲泥の差だ。俺は少し気後れしながらも、ショーウィンドウを指差した。


「あの、あれを」


「かしこまりました。サイズは?」


「……二十四センチ」


リナの足のサイズ。俺は正確に覚えている。妹が中学生の頃、体育祭で走る時に「靴がぼろぼろで恥ずかしい」と泣いていたことがあった。あの時、俺は安物のスニーカーしか買ってやれなかった。それから五年。今度は違う。今度こそ、あいつに恥ずかしくない、胸を張って履ける靴をプレゼントするんだ。


店員が靴箱を持ってきた。箱すらも高級感があって、表面には金箔で店のロゴが印刷されている。中を開けると、純白のスニーカーがふかふかのクッション紙に包まれて鎮座していた。まるで宝石か何かのように。


「お試しになりますか?」


「いえ、これで」


俺は財布を開いた。中には、今月分の給料がぎっしりと詰まっている。来月の生活費は、貯金を切り崩せばなんとかなる。リナの誕生日は年に一度だけだ。ここで出し惜しみしてどうする。


決済を済ませ、俺は靴箱を胸に抱きしめた。ずっしりとした重み。一ヶ月分の労働の、汗と血の結晶。でもそれが、明日のリナの笑顔に変わると思うと、胸が熱くなった。


「ありがとうございました。また、お越しくださいませ」


店員の笑顔に見送られながら、俺はブティックを後にした。


上層の大通りを歩く。透明なドームの天井越しに、人工の太陽が柔らかな光を降り注いでいる。街路樹は完璧に手入れされ、歩道には一片のゴミも落ちていない。行き交う人々は皆、流行の服を着て、幸せそうに笑っている。ここでは、誰も飢えていない。誰も凍えていない。誰も泣いていない。


でもこれは、ガラスケースの中の世界なんだ、と俺は思う。


俺は下層行きのエレベーターホールへと向かった。「アーカイブ行き」と書かれた案内板の前には、人の列はない。誰も好き好んで、あんな場所には行かない。


エレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、箱が急降下を始めた。胃が浮くような感覚。数字が点滅する。「ギャラリー層 - B50 - B100 - B150」――どんどん深く、深く、地の底へと落ちていく。


やがて、エレベーターが停止した。


ドアが開くと同時に、湿気と悪臭が俺の顔を叩いた。


ここが、アーカイブ。俺とリナが生まれ育った世界。


天井は低く、配管が剥き出しで、壁には黒ずんだカビが這っている。照明は薄暗く、人々は皆、うつむいて歩いている。廃棄された歴史の残骸が、通路の両脇に山積みにされている。破壊された彫刻、焼かれた書物、錆びついた兵器。これらはすべて「展示不適格」とされたもの。上層の人々が見たくない、人類の暗部。


俺は靴箱を抱きしめて、アパートへの道を急いだ。足元は水たまりだらけで、一歩踏み出すたびに泥が跳ねる。制服のズボンの裾が汚れていくのが分かったけれど、気にしなかった。ここでは、汚れることが日常だから。


「こんな場所に、あいつを置いておけるか」


俺は呟いた。純白のスニーカーを抱きしめながら。


この靴を履いたリナが、上層の綺麗な道を歩いている姿を想像する。泥に塗れることなく、悪臭に苦しむことなく、笑顔で生きている妹の姿。そのために、俺はもっと働く。もっと稼ぐ。いつか必ず、リナを上層に連れて行く。


アパートの前に着いた時、部屋の明かりが点いているのが見えた。リナが帰ってきているんだ。俺は靴箱を上着の下に隠した。明日まで、サプライズにしておきたい。


ドアを開けると、台所から湯気と共に、スープの良い香りが漂ってきた。


「おかえり、兄さん」


振り向いたリナが、無邪気な笑顔で手を振った。十七歳になる妹は、まだどこか子供っぽくて、エプロン姿が似合っている。


「ただいま」


俺は笑顔を返した。


そして、靴箱を抱きしめたまま、心の中で誓った。


「明日、必ず渡すから。お前が、泥の中を歩かなくていいように」


それが、俺の愛だと信じて。


でも――俺はまだ知らなかった。


リナの瞳の奥に宿る、冷たい光の意味を。