葦沢かもめ

ミューズ・クロニクル:硝子の靴と泥の足

第2話 食卓の嘘

嘘は、スープの湯気に紛れて見えなくなる。


俺がそう思ったのは、リナの淹れたコーンスープの甘い香りが部屋中に満ちていたからかもしれない。あるいは、彼女の笑顔があまりにも無邪気で、疑うことなど微塵も思いつかなかったからかもしれない。


「兄さん、お疲れ様」


リナは小さなテーブルに皿を並べながら、そう言って笑った。エプロンの裾が少し擦り切れているのが見えた。もう三年も使っているから、そろそろ新しいのを買ってやらなきゃな、と俺は思った。でも今月は、あの白い靴に全財産を使ってしまった。来月、来月には必ず。


俺は靴箱を抱えたまま、どこに隠そうか考えた。クローゼットの中?いや、リナは時々俺の服を洗濯してくれるから、すぐにバレる。ベッドの下?ありきたりすぎる。そうだ、ロッカーの一番上の棚なら――。


「兄さん、何持ってるの?」


リナの声に、俺は思わずびくりとした。


「あ、いや、これは……仕事の、書類だよ」


「書類?靴箱みたいだけど」


鋭い。リナは昔から観察眼が鋭かった。スラムで生き抜くためには、周囲の変化を敏感に察知する必要があったから、当然と言えば当然だ。でも今は、その鋭さが少し厄介だった。


「ああ、そう見えるかもな。でも書類なんだ。明日、上司に提出しなきゃならなくて」


嘘をつくのは嫌いだった。でも、サプライズのためなら仕方ない。俺はそう自分に言い聞かせて、靴箱を背中に隠しながら寝室へと向かった。


「ごめん、先にシャワー浴びてくる。待たせるな」


「うん、分かった」


リナの声が、背後から聞こえた。いつもと同じ、優しい声。俺は安心して、ドアを閉めた。


\***


シャワーの水が、一日の疲れを洗い流していく。


上層の仕事は、体力的にはそれほどきつくない。でも精神的には、毎日がすり減っていくような感覚だった。富裕層のゲストたちは、俺のことを「護衛官」ではなく、「家具」のように扱う。声をかけられることすらほとんどない。ただそこに立っていろ、邪魔をするな、空気のように存在しろ――そういう無言のプレッシャーが、いつも俺を押し潰そうとしていた。


でも、それでいいんだ。


俺が我慢すれば、リナが幸せになれる。それだけでいい。


シャワーを浴び終えて、タオルで体を拭きながら、俺は寝室のロッカーを開けた。一番上の棚に、靴箱を押し込む。明日の夜、仕事から帰ってきたら、これをリナに渡すんだ。あいつがどんな顔をするか、想像するだけで胸が高鳴った。


部屋を出ると、リナがすでにテーブルに座っていた。コーンスープの他に、パンとサラダが並んでいる。質素な夕食だけれど、リナが作ってくれたものなら、それだけで十分だった。


「いただきます」


二人で手を合わせる。この儀式だけは、両親が生きていた頃から変わらない。母さんが「感謝の心を忘れちゃいけないよ」と言っていたのを、俺は今でも覚えている。


スープを一口飲む。優しい甘さが口の中に広がった。リナはいつも、俺の好みを覚えていてくれる。少し甘めのスープ、柔らかめのパン、ドレッシングは控えめに。こんな細やかな気遣いができる妹を、俺はどれだけ誇りに思っているか。


「美味しいよ、リナ」


「ありがとう、兄さん」


リナが微笑む。その笑顔を見ていると、どんなに辛い一日でも報われる気がした。


「そういえば、明日は夜勤なんだ」


俺は何気なくそう言った。職場の話をするのは、リナとの会話のネタとして習慣になっていた。


「夜勤?珍しいね」


「ああ、特別展があってさ。『フランス革命の夜明け』っていう企画展なんだけど、富裕層のゲストがたくさん来るらしくて、警備が厳重なんだ」


「ふーん、大変そうだね」


リナはスープを飲みながら、興味なさそうに相槌を打った。でも俺は、話し続けた。


「配置もいつもと違ってさ。俺は第三展示室の担当になったんだ。あそこ、ホログラム装置が複雑で、警備ルートが入り組んでるんだよな。同僚のジョンが『迷子になるなよ』って笑ってたよ」


「へえ、そうなんだ」


リナの声が、少しだけ遠い気がした。でも俺は気づかなかった。彼女が、俺の言葉の一つ一つを、まるで暗号を解読するかのように記憶していることに。


「でもまあ、明日終われば三連休だからさ。その時、ゆっくり出かけようか。リナの誕生日、ちゃんと祝いたいし」


「兄さん、無理しなくていいよ。私、別に誕生日とか気にしないから」


「駄目だ。年に一度の大事な日だろ。ちゃんと祝わせてくれ」


俺はそう言って、リナの頭を軽く撫でた。彼女は少し恥ずかしそうに笑って、俺の手を払った。


「もう、子供扱いしないでよ」


「お前はいつまで経っても、俺の可愛い妹だよ」


その言葉に嘘はなかった。本当に、心からそう思っていた。


でも――。


\***


食事が終わり、リナが皿を洗っている間、俺はソファでニュース映像を眺めていた。博物館惑星ミューズの公式チャンネルでは、相変わらず「美しい歴史」の特集が流れている。今日は「産業革命の光輝」。蒸気機関の発明、工場の繁栄、人類の進歩。でも、そこで働かされていた子供たちの悲鳴や、汚染された川の映像は一切流れない。


綺麗な嘘。


ソフィアが言っていた言葉を思い出す。彼女は俺の職場の学芸員で、いつも上層部の検閲方針に反対している改革派だ。「歴史を美化するだけでは、人は過ちを繰り返す」と彼女は言った。その言葉に、俺は何も返せなかった。


だって、俺自身が「綺麗な嘘」の中で生きているから。


リナに本当のことを言えない。上層の仕事がどれだけ屈辱的か。毎日、どれだけ見下されているか。スラム出身者だとバレないように、どれだけ言葉遣いに気をつけているか。そんなこと、リナに知られたくない。あいつには、兄が立派に働いているという「綺麗な嘘」を信じていてほしい。


「兄さん、お風呂空いてるよ」


リナの声で、俺は現実に引き戻された。


「ああ、ありがとう。じゃあ、そろそろ寝るか」


「うん、おやすみなさい」


「おやすみ、リナ」


俺は自分の部屋に入り、ベッドに横たわった。薄い壁越しに、リナが自分の部屋で動いている気配がする。彼女も、もう寝る準備をしているんだろう。


明日、きっと喜んでくれる。


そう思いながら、俺は目を閉じた。


\***


しかし、俺が知らないところで――。


リナは、自分の部屋で、まったく違う顔をしていた。


彼女は枕の下から、小型の通信端末を取り出した。闇市で手に入れた、追跡不可能な違法デバイス。画面を起動させると、暗号化されたメッセージが次々と表示される。


『レイス、明日の作戦、準備はいいか?』


リナ――いや、コードネーム「レイス(亡霊)」は、冷たい瞳でキーボードを叩いた。


『問題ない。侵入ルートは確認した。第三展示室、ホログラム装置周辺の警備が手薄になる時間帯がある。兄から情報を得た』


『さすがだな。家族を利用するのは辛いだろうが』


『家族?』


リナは、自嘲するように笑った。


『あの人は、私を守ってるつもりでいるけど、本当は自分の良心を守ってるだけよ。「妹のため」って言えば、自分の保身を正当化できるから』


通信端末の画面に、作戦の詳細が送られてくる。明日の夜、特別展「フランス革命の夜明け」を襲撃する。目的は、上層部の象徴である学芸員ソフィアの排除。彼女は改革派として知られているが、それでも彼女は「システムの一部」だ。綺麗事を言いながら、結局は上層の特権を享受している偽善者。


『了解。明日、必ず成功させる』


メッセージを送信し、リナは端末を再び枕の下に隠した。


そして、彼女は薄い壁の向こうを見つめた。兄が眠っているであろう部屋の方向。


「ごめんね、兄さん」


小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。


「でも、あなたの守る『綺麗な世界』は、私たちを踏みつけにして成り立ってるの。それを壊さなきゃ、本当の未来は来ない」


リナは目を閉じた。


明日、すべてが変わる。


兄が大切にしている「平穏」を壊す日。


そして、自分が愛した「優しい兄」を裏切る日。


温かいスープの湯気の向こうで、兄妹の心はすでに、決定的にすれ違っていた。